憩いの場所
「どこに行きます?伊藤さんの行きたいところ行きますよ」
車で杏奈と二人きりになった坪田はドキドキしながら杏奈にたずねる
「そうね...支笏湖に行きたいな。ちょっと時間かかるけどいい?」杏奈は車のミラーで前髪を整えながら言う
「支笏湖ね。行ったことないからカーナビ使おうっと。ちょっと待ってね」坪田はそう言いながらカーナビを操作する
一時間ほどで車は支笏湖に着いた
「ここか支笏湖かぁ~そういえば、昔父さんが北海道旅行に行った時に寄ってきたと言っていたなぁ。伊藤さんはよくここに来るの?」坪田は湖を見渡しながら杏奈にたずねる
「うん。ここに来ると落ち着くの。大切な人が見守ってくれている感じがしてね。親と喧嘩して半日家出した時もここに来たし、医学部でやっていけるか不安になった時もここに来たりね。医学部受験と国家試験の前日も来たの。」杏奈は湖畔に積もった雪に触れながら答える
「そうなんだ。伊藤さんの心の拠り所なんだね。支笏湖に来るようになったのはいつから?」坪田も雪玉を作りながらたずねる
「最初に来たのは5歳の頃なの。支笏湖好きな叔父が連れてきてくれてね。その叔父が北海道を離れることになってね。その前に一度見ておきたいからと。」杏奈は幼いころの思い出を懐かしむように語る
「叔父さんというのはもしかして僕の父の同僚だった人?」坪田は母との会話を思い出し尋ねる
「うん。ちょうど今から15年ほど前の3月に亡くなったの。何も言わないで一人で...」杏奈はそう言いながら涙ぐむ
「そうだったんだ...」杏奈の言葉に坪田はそう答えるしかなかった
「あっ!いきなり暗い話してごめんね!そうそうこの前、深雪がさ~」杏奈はそう言って話題を変えた
坪田は杏奈を家まで送って行った
「今日はありがとう」杏奈は自宅の前で車から降りると運転席の坪田に礼を言う
「いえいえ、こちらこそ伊藤さんが誘いにのってくれて嬉しかった」坪田もそう言って穏やかに微笑む
「私も誘ってくれて嬉しかった」杏奈もそう言ってニコリと笑う
「お互いに仕事頑張ろうね。あの....その今度は...医学部の同窓会、吉田と企画しているんで来てください!」坪田は言いたかったことをごまかすように同窓会の話題を切り出す
「同窓会...うん、是非参加するね...じゃあ」杏奈は期待していたことを言われず少し残念に思いながらも笑顔で答える
「じゃあ...この辺で。ばいばい」坪田はそう言って車の窓を閉めると車を発進させた
「ただいま~」杏奈が玄関のドアを開ける
「あら~びっくりしたわよ。卒業式終わってそのまんま友達と出かけるなんてLINEが来て」泰子は飼っている猫を抱きながら言う
「ごめんね。今日は本来なら出前取ってお祝いなのに。」杏奈はそう言って一恵に詫びた
「そういえば、帰り道に深雪ちゃんと会ったわよ。てっきり深雪ちゃんとどこかに行くと思っていたからびっくりした~まさか友達って女の子ではない?」泰子はそう言ってニヤニヤする
「いやっ、その...」泰子の勘の鋭さに杏奈はたじろぐ
「はは~ん、男の子と一緒だったのね。ねっねっ、どんな人!!」泰子はそう言って聞き出そうとする
「実はね、叔父さんが長野の病院でお世話になった人の息子さん。」杏奈は髪飾りを取りながら答える
「うそ...まぁ。庸介が引きあわせてくれたのかな。もう25歳なのに彼氏がいないあんたを心配して...いいじゃない...運命的ね...今度家に連れていらっしゃい」泰子はとてもうれしそうに目を潤ませる
「いや....その...まだ家に連れてくる関係とかではなくて...」
杏奈は早とちりした泰子に事情を説明しようする
その時、杏奈のスマートフォンの着信音が鳴った
画面を見ると、‘志村陽介‘と表示されている。画面には悪戯っ子の笑みを浮かべた陽介の顔が映る
「もしも~し」杏奈が電話に出る
「おぅ!今日卒業式だったんだってな!卒業おめでとう!」陽介が威勢よく杏奈を祝う
「ありがとう~!あんたも受験頑張るのよ~。」杏奈はそう言って陽介にエールを送る
「ありがとな!今日も春期講習受けてきたところ。S大附属受けようかなって思っているんだ」
「S大附属って東大に50人出しているところ?!陽介、あんたそんなに成績良かったのね」杏奈が陽介の目標の高さに驚く
「へへへ、中一からずっと学年で1位なんだぞ。」陽介が自慢げに答える
「でも油断しちゃだめよ。それに高校入ってからが肝心よ。」杏奈がそう言って陽介をたしなめる
「はいはい、わかってますよ。それより杏奈さん、遂に彼氏が出来ず卒業みたいで」陽介が杏奈を茶化す
「失礼な~これでも結構モテたんだからっ、ただ好きな人からのアプローチがなかったのよ!でもね今日、その人に卒業式の後誘われて食事したんだから」杏奈はムキになって反論する
「マジか?!もしかして次のデートの約束も取り付けちゃったとか」陽介も興味津津に杏奈にたずねる
「それは...」そう言われて杏奈は口ごもる
「おやおや、今日一回きりかぁ。デート中に気の強さを発揮しちゃった?この感じだと俺の方が先に恋人出来そうだ。結婚も先越したりして」陽介が杏奈を茶化す
「うるさいわね~!!私を茶化している暇あったら勉強しなさいよっ!!S大附属難しいんだから!!」杏奈が顔を赤くして怒る
「ひゃ~、まぁまぁ早ければ良いってもんじゃないし。じゃあ仕事頑張ってな。俺は受験頑張る」陽介は杏奈をなだめるように話を締める
「そうね....というかよくよく考えたらしばらくは仕事忙しくて恋愛出来無さそうだなぁ。あっ!そういえば明後日から卒業旅行だから準備しないと。あんたも頑張るのよ!!じゃあね」杏奈がそう言って電話を終わらせる
「あぁ、お土産宜しく~じゃあな」そう言って陽介も電話を切る
「まったく~最近ますます生意気になって~」そう言いながらも陽介の成長ぶりに杏奈は嬉しそうだ
「杏奈と陽介ちゃんって私と叔父さんみたいな関係ね...」後ろでやりとりを聞いていた泰子が笑いながら言う
「陽介、写真で見る叔父さんの中学生時代にそっくり。ただ叔父さんあんなに生意気じゃないわよ。」杏奈もそう言って笑う
「うううん、庸介も私の前ではあんな感じだったわよ」泰子が棚に飾ってある中学の野球部で試合中の直江の写真を見て言う
「どんどん似てきてるんだねぇ」杏奈が涙ぐみながら笑う
「本当にそうよね。蕎麦が好きなところも」泰子もそう言って涙ぐむ
「そういえばあんた、今日の人とは次のデートの約束しなかったんだって」二人の会話を聞いていた泰子がたずねる
「そうなの...もうこれっきりなのかな?」杏奈がそう言って切なさそうな表情を浮かべる
「こうなったら、あんたから誘えば良いじゃない?」泰子がニヤリと笑って言う
「でも、これからかなり忙しくなるからなぁ。恋愛で仕事が手につかなくなっても困るし。落ち着いたら誘おうっと」杏奈がコットンで化粧を落としながら言う
「全く、真面目なんだから。モテるのに恋愛より仕事だったの叔父さんみたい」泰子がそう言って笑う
「叔父さんみたいな医師にならなきゃね。」杏奈はそう言って棚にある直江の卒業写真を手に取り微笑みかけた